日の呼吸と炎の呼吸の違いは?日の呼吸の使い手や型は?最強の御業とは?

日の呼吸とは何なのかと、継国縁壱(つぎくによりいち)が何故強かったのかについても考察しました。
『鬼滅の刃』は知れば知るほど、奥が深いと思いますね。
ネタバレ注意です!

「炎の呼吸」を「火の呼吸」と呼んではならない。

この台詞は『鬼滅の刃』7巻第53話で、胡蝶しのぶが言いました。
しのぶは理由を知りませんが、呼び方について厳しいと炭治郎に話していました。

『鬼滅の刃』8巻第68話で、煉獄杏寿郎の父慎十郎(しんじゅろう)が、炭治郎が煉獄さん(杏寿郎)の遺言を伝えに来るなり烈火の如く怒り、

「“日の呼吸”の使い手だな?」
「お前俺たちのことを馬鹿にしているだろう」

「始まりの呼吸」
「一番初めに生まれた呼吸最強の御業」
「そして全ての呼吸は“日の呼吸”の派生」
「全ての呼吸が“日の呼吸”の後追いにすぎない」
「“日の呼吸”の猿真似をし劣化した呼吸だ。火も水も風も全てが!!」と怒鳴って、炭治郎に殴りかかってました。

『鬼滅の刃』7巻第54話で煉獄さん(杏寿郎)が、炭治郎からヒノカミ神楽について聞いた時呼吸の話になりましたが、「日の呼吸」のことは知らないようで、「炎・水・風・岩・雷が基本の呼吸だ」
「他の呼吸はそれらから枝分かれしてできたもの」
「霞は風から派生している!!」と言っていました。

日の呼吸のことが書かれた「二十一代目炎柱ノ書」を読んで、父慎十郎はあまりのショックでズタズタにしました。
槇寿郎が日の呼吸のことを、息子たちに言わずにいたのは、知ってもためにならないと思ったからでしょう。

おそらく炎の呼吸を火の呼吸と言ってはならないのは、「日」と「火」が同音なので混同しないためでしょう。
それに「日の呼吸」は、始まりの呼吸とも言われているので、尚さら区別するためでもあったのでしょう。

でもそうかといって、槇寿郎の言うように「日の呼吸」が最高で、他の呼吸が劣化版だと炎柱ノ書に書かれていたのでしょうか?
炎柱ノ書の内容が明記されてないので不明ですが、人それぞれ同じものを見ても同じ見方・捉え方・解釈が違うので、私としては槇寿郎が他の呼吸は劣化版だと解釈しただけで、息子の杏寿郎がもし読んでいたら、父親とは全く違う解釈をして別に落ち込まなかったと思います。

日の呼吸の使い手とは?

初代の使い手は、継国縁壱(つぎくによりいち)です。
戦国時代に縁壱が直接教えた弟子の使い手もいたと思われますが、その後継者はことごとく無惨と黒死牟によって絶たれました。

唯一残ったのが、縁壱が鬼から助けた竈門炭吉(かまどすみよし)だけです。
炭吉は炭焼き職人で侍ではなかったのですが、「日の呼吸」があまりにも素晴らしく舞いのようだったので、火の神様に捧げる「ヒノカミ神楽」として継承しました。

炭吉は視覚能力に特化していたようで、見ただけで寸分たがわず記憶して子孫に伝えました。
むしろ全くの素人だからこそ、素直にそのまま同じことが出来たのかもしれません。
先入観や癖とかない方が、案外すんなり覚えられたのだと私は思うようになりました。

そうして、代々竈門家はヒノカミ神楽を継承して、炭治郎が「日の呼吸」として技を会得できたのでした。

日の呼吸の型の特性

日の呼吸の型は、技が十二個の型があり、それがぐるぐるつながって円環をなし十三の型になるのが特徴です。
もう一つ他の呼吸の型と違うのが、壱ノ型、弐ノ型と順番が明記されていないことです。

『鬼滅の刃公式ファンブック鬼殺隊見聞録・弐』の「日の呼吸の極意」では、
「「始まりの呼吸の剣士」・継国縁壱が使用していた技。型の動きは息を忘れるほどに美しい。竈門隊士は先祖より継承されてきたヒノカミ神楽からこの呼吸に辿り着いた」と書かれてましたが、これでは極意の説明になってないと思います。

順番の壱ノ型とかはなく、技名と説明が書かれているだけです。

『鬼滅の刃』の作中でも技名だけで、他の呼吸なら必ず〇ノ型と技名と言うのに、どうして日の呼吸だけは壱ノ型とか言わないのだろうと、私は不思議に思いました。
無惨戦で日の呼吸の技を繰り出していく順番も決まってないようです。

『鬼滅の刃』22巻第192話では日の呼吸の型が、十二個を丸く円のように書かれています。
炎舞→幻日虹→火車→輝輝恩光→飛輪陽炎→斜陽転身→日暈の龍・頭舞い→陽華突→灼骨炎陽→烈日紅鏡→碧羅の天→円舞

これが、ヒノカミ神楽の舞としての順番なのでしょうか?

第193話の炭治郎と無惨の戦いで、炭治郎が十二個繋げた日の呼吸の型は、
飛輪陽炎→輝輝恩光→碧羅の天→火車→烈日紅鏡→炎舞→幻日虹→円舞→斜陽転身→灼骨炎陽→日暈の龍・頭舞い→陽華突
となっていました。

もともと炭治郎の日の呼吸は、ヒノカミ神楽から来ているので、剣技として壱ノ型、弐ノ型という認識はないのでしょう。
ただ舞う順番は決まっていたでしょうが、無惨との戦いでは繰り出す攻撃によって、反撃する技もその都度変わるので、あまり壱ノ型、弐ノ型としてこだわる必要もなさそうですね。

むしろ、それぞれの技を途切れずに、どのように繋げていくかが重要で、息の続く限りひたすら流れるように変幻自在に技を繰り出せるのが、日の呼吸の凄さだと思います。

日の呼吸全型の技の名前と説明

2冊ある公式ファンブックから抜粋すると、十二個の型は以下の通りです。

飛輪陽炎(ひりんかげろう)は、切っ先が陽炎の如く揺らぎ、刀身が伸びたように感じられる。
攻撃範囲が読まれにくい技。

輝輝恩光(ききおんこう)は、鋭く力強い踏み込みと、素早い剣の振り抜きが特徴の技。
その凄まじい速度は、まるで身に燃え盛る炎の渦を纏(まと)っているかのように見えるほど。

碧羅の天(
へきらのてん)は、日輪の輪郭のように円を描き刃を振るう。
鬼の巨大な頚の骨を一撃で断つほどの威力を持つ。

火車(かしゃ)は、相手の真上を飛んで背後に周(まわ)り、「隙の糸」の確認と同時に斬り込む技。

烈日紅鏡(れつじつこうきょう)は、∞(無限大)を描くように左右対称の鋭い斬撃を放つ。
高速で襲いかかる上弦の鬼が操る帯の群れを、すべて切断した。

炎舞(えんぶ)は、大きな半円を描く斬撃を二度入れる連続技。
一撃を躱(かわ)されてももう一度狙うことが可能になる。

幻日虹(げんじつこう)は、高速の捻(ひね)りと回転で攻撃を躱す。
視覚の優れた相手は残像を捉えてしまう。

円舞(えんぶ)は、会得時の最初に繰り出した技。
美しい弧を描く強烈な斬撃を放ち、鋼ほどの硬い糸をたやすく斬る。

斜陽転身(しゃようてんしん)は、空中で反転した体勢で剣を振るう。
敵の動きを読みギリギリで反転し、相手が攻撃を出し切る前に斬り込む。

灼骨炎陽(しゃっこつえんよう)は、灼熱の炎の如き強大な力を持つ高速回転斬り。
斬った相手に灼けるような痛みを与え、回復の速度を遅らせる。

日暈の龍・頭舞 (にちうんのりゅうかぶりま) は、龍が舞っているかのような動きで素早く接近。
禰豆子の「爆血(ばっけつ)」を纏った刃で三体の鬼の頸を一撃でほぼ同時に斬る。
敵の回復再生速度を遅らせる特性を持つ。

陽華突(ようかとつ)は、上空へと向かって飛び上がり攻撃の威力を一点集中させる突き技。
天井に移動した上弦の鬼に対して素早く放った。

  • 円舞一閃(えんぶいっせん)は、「円舞」と雷の呼吸・壱ノ型「霹靂一閃(へきれきいっせん)」をあわせ新たに編み出した技。
    円舞の攻撃に霹靂一閃の高速技を応用している。

日の呼吸と炎の呼吸の違いは?

日の呼吸の剣技を縁壱が炭吉夫妻に見せた時、縁壱は人ではなく精霊のようだと見られ、舞いのように流麗な型でした。
このように日の呼吸の十三の型にもあらわれる円環が、この呼吸の一番の特徴です。
技をエンドレスで繰り出し続けられ、なおかつ威力も太陽の光の如く発揮できます。
縁壱の刀の色は普段は漆黒ですが、戦う時は赫刀(かくとう)になります。

炎の呼吸の特徴は、『鬼滅の刃公式ファンブック鬼殺隊見聞録・弐』の「炎の呼吸の極意」によると、「地面をしっかりと踏みしめ放つ技が主軸となっている。そのため、伝統的な剣術と同じく下半身に力を入れ、堂々たる威容で刀を振るうことが肝要だと思われる。」と書かれています。

「煉獄杏寿郎外伝」の中の煉獄母・瑠火の言葉にあるように、
「悪鬼を燃やし尽くし、人を優しく照らしだす」
「心に太陽のような炎を宿した炎柱」の日輪刀は、燃えたぎる炎のような赤い刃です。
奥義玖ノ型・煉獄に至っては、灼熱の業火の如き威力で猛進し、轟音と共に相手を抉り斬ります。
まさに最終奥義にふさわしい凄まじい破壊力です。

日の呼吸も炎の呼吸も甲乙つけがたいですが、技の持続性、長時間の戦闘においては断然日の呼吸の方に分があるでしょう。

なぜ日の呼吸は、最強の御業(みわざ)と言われるのか?

もし21代目の炎柱が、刀鍛冶の里の小鉄くんの先祖みたいに観察眼と分析能力があったら、炎の呼吸の型も違っていたかもしれません。

なぜかと言うと、日の呼吸の十三の型は円環でエンドレスに戦えるのは、慣性の法則によってエネルギーを無駄なく一番効率よく、最小限の動きで最大限の力を発揮できるからです。

不死身の鬼と戦うのに、これは大変重要な事です。
無惨や上弦の鬼ともなれば、頸を斬っても死にません。
太陽光のみが弱点であれば、朝日が昇るまで戦い続ける必要があります。
いわば持久戦を強いられるので、体力の消耗を極力減らさなければ討伐できません。

始まりの呼吸の剣士、継国縁壱(つぎくによりいち)の強さは、天賦の才と言ってしまえばそれまでですが、彼は生まれ持っての人格者であり、透き通る世界に到達している道を極めた者でした。

『鬼滅の刃』12巻第99話で、炭吉との会話で縁壱は、
「道を極めた者が辿り着く場所はいつも同じだ」
「時代が変わろうとも、そこに至るまでの道のりが違おうとも」
「必ず同じ場所に行き着く」
「お前には私が何か特別な人間のように見えているらしいが」
「そんなことはない」と言っていました。

つまり縁壱は誰でも道を極めれば同じだと言っていますが、どうして皆道を極められないのでしょうか?
なぜ皆縁壱のようになれない、その差やその違いはどこにあるのでしょうか?
その差異を自分と照らし合わせて、見極められたら縁壱に近づくことができると思います。

縁壱が通常の人と違うところは、感情を表さず常に冷静沈着ですが、何も感じてないわけでなく、人の幸せを自分の幸せと思える人です。

『鬼滅の刃』21巻第186話で、縁壱は炭吉に向かって、
「幸せそうな人間を見ると、幸せな気持ちになる」
「この世はありとあらゆるものが美しい」
「この世界に生まれ落ちることができただけで、幸福だと思う」

縁壱の今までの不幸な境遇を見てきたら、よくそのように素直に純粋に思えるよなあと、私はつくづく感心してしまいました。
通常の人でこれだけ不幸な目に遭ったら、嘆き文句を言い怒ったり、人や世の中のせいにして責めてしまいます。

しかし、縁壱には妬みプライド、自己憐憫、怒り、批判、思い込みなどネガティブな感情や思考が殆どありません。
これだけでも大したものです!

最愛の妻子を失い、兄が鬼になってしまった悲しみはありますが、縁壱は父親に殺されそうになっても恨み憎むことはありませんでした。
これはもう縁壱は、悟りの境地に達していると思います。

兄も裏切り者として鬼になり、自分は仲間たちから罵られても、縁壱は最後兄に対して「お労しや」と涙を流していました。
縁壱は人に対して、どんな仕打ちをされようとも恨んだり怒ったりしませんでした。

縁壱が許せなかったのは、無惨だけでしょう。
縁壱は物事にとらわれず、感情に左右されず、ただやるべきことを淡々と粛々としていたからこそ、道を極められたのだと私は思います。

このように見て行くと、日の呼吸が最強の御業というよりは、道を極めた者が繰り出す技が、最強の御業と言えると私は思います。
だから、日の呼吸でなくても他の呼吸でも、スタイルは構わないと思います。

縁壱も時代が変わろうと、道のりが違っても行き着く所は同じだと言ってます。
道を極めるのは、自分の生き方そのものを極めることだと私は思います。

人は常に何かにとらわれ、あれこれ雑念に悩まされています。
瞑想しても、なかなか無の境地には行きません。
何かしら左脳でごちゃごちゃ考えてしまい、疑心暗鬼になったり諦めたり僻(ひが)んだりしてしまいます。

これが心理ブロックになって、自分本来の能力を発揮させなくしています。
これに気づかないと、いくら頑張っても報われません。

煉獄慎十郎も黒死牟(継国厳勝)も、「選ばれし者」にこだわり過ぎて、自分はそれに達せないと思い込んでいました。
確かに肉体の耐久性や特性は個人差があり、どうしようもないことですが、それ以外ならどれだけ無駄な考えや動きを省き、効率性を求めるかで全然パフォーマンスが違って来ると思います。

あの二人がいかに日々無駄な感情や考えにとらわれているかを自覚して、それを手離して行けば、どれだけ自分の気持ちが楽になり、軽やかに言動が変わるのか体感できれば、縁壱に近づくことが出来たのにと思います。

また長々と熱く語ってしまいました。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。
煉獄慎十郎や黒死牟についても色々語ってますので、詳しく知りたい方は以下のページからご覧くださいませ。

☞「煉獄慎十郎が、なぜ柱をやめた理由は?

☞「黒死牟は笛をなぜ持っていた?

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