『鬼滅の刃』の煉獄さんこと、煉獄杏寿郎(れんごくきょうじゅろう)が猗窩座と戦って死ぬ場面について熱く語るとともに、早すぎる死について、なぜ死ななければならなかったのかを考察し、煉獄さんの最期や死生観について私見をくわしく述べます。
煉獄さんは誰に殺された?
上弦の鬼参・猗窩座(あかざ)と壮絶な死闘の末、煉獄さんは殺されました。😢
『鬼滅の刃』8巻第63話、アニメ「無限列車編」第6話は、煉獄さんと猗窩座の激しい戦闘シーンです。
やっと炭治郎と伊之助が、下弦の鬼壱・魘夢(えんむ)を倒したところに、突如として猗窩座が上から落ちてきて、いきなり炭治郎に襲いかかりました。
負傷した炭治郎は動くことが出来ずにいると、煉獄さんが素早く猗窩座の腕を斬りましたが、上弦の鬼はどんなに斬られようとも、あっさり元に戻ります。
猗窩座は煉獄さんの強さを見抜き、すっかり気に入って鬼になるよう煉獄さんに勧めます。
しかし、煉獄さんはキッパリ断ります。
私が驚いたのが、煉獄さんは猗窩座にたいして、「君と俺とでは価値基準が違う」と答えたことでした。
鬼に対して「君」と呼ぶのも、まるで人間のように接しているようで、ましてや「価値基準が違う」と言うのも、振るっているなと思いました。
やっぱり煉獄さんだけあって、とっぴというか変わってるよなぁ。
猗窩座は、煉獄さんを武の道を極める者として、戦いながらしきりに鬼になれと誘い、煉獄さんの闘気、気迫、精神力に感激して、「お前は選ばれし強き者なのだ」と叫ぶも、煉獄さんはそんなの無視して、全力で猗窩座の首を切ろうとしましたが切れず、致命傷を受けて亡くなってしまいました。
猗窩座は夜明けになったので、さっさと逃げました。
煉獄さんの死亡シーンは、心が震えて泣ける!
『鬼滅の刃』8巻第66話、アニメ「無限列車編」は第7話で、煉獄さんは炭治郎に最後の言葉を伝えます。
私はアニメから『鬼滅の刃』を知ったのですが、でも今は原作のマンガの方が好きですね。
何度読んでも、私の心は震えます。
煉獄さんは、「俺がここで死ぬことは気にするな」と炭治郎に言います。
「柱ならば誰であっても同じことをする」という言葉に、私は柱というものは、とてつもなく大きな責務を背負っていて、人間の命運を左右するだけの能力を与えられた人なんだなと思いました。
ただ強いからなれるのではなく、責務を全うするために強さを求められているのだと思いました。
ある人は柱というのは、神様に対していう言葉だから、神様を数えるときは、一人とか一体ではなく、一柱というので、その人は柱と言われる者は、神の如き者だと説明していましたが、私は神というより「人柱(ひとばしら)」のような気がしてなりません。
人々を救うため、自らが犠牲となり命を捧げる者が、鬼殺隊の柱なのではと思います。
でも鬼殺隊の隊士のほとんどが、自己犠牲の塊のような人たちですから、その中で最強の人柱という意味もあるのかなぁと思います。
ほかにも、家にたとえると、建物を支える柱という意味もあるでしょう。
いろんな解釈が、できると思います。
煉獄さんは血まみれでひどい姿をしているのに、それでも穏やかな表情で家族への遺言を伝え、炭治郎を励まし、伊之助や善逸にも後を託して、迎えに来た最愛の母親にほめられて、あの世へ笑顔で逝きました。
煉獄さんが死んでしまって、私はさみしくてガッカリ😞しましたけど、でもなんだか清々しい気持ちもありました。
やっぱり煉獄さんの言葉が、私も炭治郎たち同様に心に響いたからでしょう。
死に様の潔さに煉獄さんらしい快活さ、全然暗くなく心がよどむことなく、爽やかな朝日と共に去っていった煉獄さんを、まぶしく感じるのは私だけでしょうか?
煉獄さんの死亡理由とは?
善逸が作中で、「なんで来んだよ。上弦の鬼なんか」と言うように、誰もこんな強い上弦の鬼が来るなんて予想してなかったようです。
そもそも無限列車の乗客行方不明事件は鬼の仕業だろうということで、鬼殺隊の隊士が探索に行ったが戻らなかったため、お館様の産屋敷耀哉(うぶやしきかがや)は、炎柱の煉獄さんを任命しました。
おそらくお館様は下弦の鬼だろうと予測したから、柱である煉獄さんを行かせたのでしょう。
だがしかし、いくら先見の明のあるお館様でも、まさか上弦の鬼が出てくるとは思わなかったようです。
もし上弦の鬼とわかっていたなら、少なくとも柱を二人以上行かせたはずです。
煉獄さんは柱のなかで、岩柱の悲鳴嶼さんの次に強いと私は思います。
そんな強い煉獄さんでも、いや最強の岩柱でも一人では上弦の鬼を倒せないことが、私はありありとわかりました。
つまり、痣が発現して赫刀(かくとう)にならない限り、上弦の鬼の首は斬れないことが理由としてあげられます。
通常の日輪刀では、上弦の鬼の首を斬るどころか、ダメージすら与えないということです。
煉獄さんが猗窩座を何度切っても、猗窩座の体はすぐ再生して元通りになったからです。
煉獄さんは並外れた持久力と忍耐力で戦い抜いたから、夜明けを迎えることができたのだと私は思います。
ちなみに私としては、煉獄さんも痣を発現させて、猗窩座(あかざ)の首を斬ってほしかったと、思わずにいられませんが、その後の展開を見ると炭治郎が猗窩座を倒して、猗窩座や恋雪(こゆき)ちゃんたちの魂が救われたのだから、これはこれで仕方なかったのでしょう。
『鬼滅の刃』8巻第67話で、猗窩座が無限列車に現れた理由が描かれています。
鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)には魘夢(えんむ)がやられたのがわかったので、たまたま近くにいた猗窩座を急遽無限列車へ向かわせたということですね。
なぜ猗窩座が近くにいたかというと、青い彼岸花を探していたからです。
さて、煉獄さんの死は大きな痛手ではありましたが、炭治郎たちは煉獄さんの遺志をそこから受けつぎ、それを繋いでいこうと努力します。
煉獄さんの死を通して、原作者の一番伝えたいメッセージは、伊之助のセリフにあると私は思います。
そのセリフの抜粋は、以下の通りです。
「信じると言われたなら、それに応えること以外考えんじゃねぇ!!」
「死んだ生き物は土に還るだけなんだよ」
「べそべそしたって戻ってきやしねぇんだよ」
「悔しくても泣くんじゃねぇ」
「どんなに惨めでも恥ずかしくても」
「生きてかなきゃならねえんだぞ」
この言葉の意味は、計り知れないほど深いです。
伊之助が言うから、わりとサラッと受け流してしまいそうですが、私にはグッと突き刺さりましたね。
炭治郎のように自分に対して、疑心暗鬼になってる場合じゃないです。
信じて託されたのなら、もう自分を信じて突き進むしかない。
グダグダ言っても、めそめそ泣いても何の解決にもなりません。
自分に出来るかどうかではなく、自分はどうしたら出来るかをひたすら考えて行動するしかないです。
それで結果的に出来なくても、また誰かに託せばいい。
自分一人で背負いきれないものは、出来る人に託せばいいだけで気負う必要もない。
ただやれるところまで、精一杯努力することが大事なんだと思いました。
大切な人を失った喪失感は、想いが深ければ深いほど、心をえぐられるように辛くて苦しいものです。
それでも死の悲しみや惨めさのなかでも、生き抜いて行かなきゃならないんだと、原作者はエールを込めて私たちにメッセージを送ってくれたのだと私は思います。
私はこのメッセージを今だからこそ、しっかり受け止めることができます。
でも、若い時ならこのメッセージにさえ気づかず、ただ悲しさに浸って現実逃避していたでしょう。
人はそれぞれ人生の体験や経験が違うから、みんなその時の感じ方や受け止め方に従えばいいと思います。
煉獄さんの死は、人の死について大いに考えさせる、よいキッカケを与えてくれたのだと思わずにはいられません。
煉獄さんは死ぬのが早くて、つらすぎる悲しい!
煉獄さんが無限列車の戦いで壮絶な死に方をしたとき、この思いがけない衝撃に多くの人が、いろんな所で想いや感情を熱く語っていました。
2020年当時私は、その様子を見ていただけでした。
『鬼滅の刃』は確かに多くのキャラクターたちが死にましたが、でも『進撃の巨人』よりずっとマシだと思います。
『進撃の巨人』の方がむごい死に方をして、私は好きなキャラが死んだときショックで、すっかり作品が嫌いになりました。
でも、『鬼滅の刃』は死んでもあの世に魂になったキャラたちがいて、その姿を見ると心が和みます。
炭治郎のピンチのたびに死んだはずの家族が、その都度出てきて炭治郎を助けようとします。
第1巻から死んだはずの錆兎(さびと)と真菰(まこも)が、炭治郎の剣術の稽古をつけました。
これらを見ると、人は死んで終わりではなく、魂は存在し常に現世で生きている人を見守り続けていると受け取れます。
現代人は、死んで終わりだと思っている人が多いようです。
しかし、原作者は魂の存在を信じているからこそ、わざわざ最終話で生まれ変わりのキャラクターたちを登場させたのだと思います。
私もなんとなく歳とともに、現世の死はただ肉体の使用年数が切れただけで、魂はまた元の世界に戻るんだなと思えるようになりました。
だから、煉獄さんは現世の肉体を失っただけで、魂はあの世に戻って、大好きなお母さんと一緒に現世の父親と弟の千寿郎を見守りつつ、炭治郎にも陰ながら応援していたに違いないと私は思っています。
『鬼滅の刃』22巻第192話の最終決戦で、炭治郎が心折れそうになったとき、作画では煉獄さんの鍔(つば)と、「心を燃やせ」のセリフが描かれてましたが、私としては煉獄さんのシルエットが、炭治郎の後ろに描かれていたら、良かったのになぁと思わずにはいられません。
それに、みんな惜しい人を亡くした時はつらくて悲しいし、現実を容易に受け入れられませんが、それでも煉獄さんの死としっかり向き合うことは、これから実際に大好きな人やペットと死別したときの心構えになると思います。
たとえアニメのキャラクターであろうとも、これはもう愛別離苦(あいべつりく)の疑似体験に充分なりえると思います。
煉獄さんの最後について思うこと
煉獄さんの死生観
老いることも死ぬことも人間という儚い生き物の美しさだ。
老いるからこそ死ぬからこそ、堪らなく愛おしく尊いのだ。
強さというものは、肉体に対してのみ使う言葉ではない。
言わずと知れた煉獄さんの名セリフの一つです。
煉獄さんは、本当に「言霊遣い(ことだまつかい)」だと思います。
煉獄さんの発する言葉そのものがエネルギーを持ち、そのエネルギーをうまく扱いめぐらしていると私は感じます。
この言葉を理解したなら、死も老いもなにも恐れることはないと思います。
でも、人間は本能的に死が怖いし、老いるのだって嫌です。
それでも、人間には寿命があって死は必然です。
一番認めたくない残酷な現実、それが死です。
今の大半の現代人は、死んだら終わりと思っているのではないでしょうか?
だから死ぬのが怖い。
老いることだって、体が衰え何もかもが思うようにいかなくなって醜くなるのに、煉獄さんはなぜ堪らなく愛おしいと言うのだろうと思ってしまいます。
煉獄さんの感性は、私たちとはずいぶん違うなぁと思いますが、でも美しい死生観だと思います。
逆に言えば、無限の美しさだったら当たり前になってしまって、何の変化もないでしょうが、有限の美だからこそ、いつ変化するかもしれず、有り難い存在として見えるから、愛おしくて尊いと思えるのでしょうかね。
強いということも、肉体だけではなく精神や心に対しても、同じように言えるのでしょうね。
煉獄さんは人と話がかみ合わないことがよくありますが、でも人間の本質をちゃんと見抜いているから、立派な人だなぁと思ってしまいます。
煉獄さんはなぜ人気なのか?
煉獄さんはカッコイイし、悲鳴嶼さんの次に強いし、立派な人格者でした。
鬼殺隊の人たちからも慕われ、特に伊之助や善逸のような我の強い、協調性ゼロ、人の言うこと聞かないヤツからでも「兄貴」と慕われていました。
煉獄さんは柱全員からも好かれて、あの伊黒小芭内(いぐろおばない)や不死川実弥(しなずがわさねみ)でさえからも、好感を持たれてました。
やっぱりあの性格というか、人柄ですね。
はじめ柱合裁判では、炭治郎や禰豆子(ねずこ)のことで、お館様・産屋敷耀哉(うぶやしきかがや)に反対していましたが、お館様の説明と成り行きで意向に従いました。
その時炭治郎がお館様に向かって、「俺と禰豆子は鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)を倒します」と大見得を切ったとき、甘露寺蜜璃(かんろじみつり)、宇随天元(うずいてんげん)、胡蝶しのぶ、悲鳴嶼行冥(ひめじまぎょうめい)は笑いをこらえてましたが、煉獄さんだけが「うむ!いい心掛けだ!」と感心してました。
煉獄さんは強さを肉体のみ見ている人ではなく、その人の心意気や心のあり方、ひたむきさを見ているんだなと私は思いました。
どんな人にも分け隔てなく大らかに接して、偉ぶることもなく明朗快活な陽気なキャラクターだから、人気なのですね。
煉獄さんが上司だったら、部下は本当にやりがいのある仕事ができると思います。
煉獄さんは考え方や価値基準が違っても、押し通したり根に持ったりせず、さっぱりとした性格です。
人の話をちゃんと聞かなくても、スパッと結論を言うが、人の感情には敏感なので、気遣いができる人でもあります。
なので、こんなに素敵な人物が、登場してすぐ亡くなってしまうのは、本当に残念でなりません。
みんなの煉獄さんの死を惜しむ気持ちの強さ、慕う気持ちが半端ないと思います。
それも、人気の理由になるのかなとも思えます。
煉獄さんスゴイ!と、私が一目見て感じた不思議について
2020年のコロナ禍で、私はその当時『鬼滅の刃』には全く興味がありませんでした。
私は本屋で劇場版『鬼滅の刃 無限列車』のポスターを一目見たとき、思わず吸い寄せられました。
煉獄さんが、抜き身の刀を前にして立っているポスターです。
私は何の知識もなく先入観もなく、ただこの人はスゴイと感じました。
理屈抜きで、まさしく直感ですね。
なんだかもの凄いパワーを、発しているように感じました。
アニメのキャラクターでも、実在の人物のようなパワーを発揮するのかと、疑問に思ったんですけど、突然私の脳裏に『あしたのジョー』の力石徹が思い浮かびました。
アニメのキャラクターであるにもかかわらず、実在の人物と同じように1970年3月24日に葬式が行われました。
私はまだ幼くよくわかりませんでしたが、あれもアニメが引き起こした社会現象でしたね。
主人公の矢吹ジョーより、ライバルの力石徹の方が人気でした。
あの当時は、出版元の講談社がアニメの宣伝イベントで行ったそうですが、発起人は寺山修司氏で参列者数が700人以上ということで、私は出版社の思惑でなったわけでなく、むしろアニメファンの熱い想いから現象化したように思います。
多くの人が架空の人物でも、実在の人物のように捉えているのをみると、一見不思議に思えますが、歴史をさかのぼってみると、妖怪とかも架空の存在です。
妖怪は精霊を人間が、それぞれ具現化したものと言えますが、それでも実在の生物ではありません。
私たちは架空の妖怪に対しても、信じる人にとっては実在の存在と変わりません。
トイレの花子さん、口裂け女も架空の存在なのに、私は子どもの頃とても怖かったです。
そう考えると、アニメのキャラクターも架空の存在だからと侮れない、むしろファンにとっては実在の人物と同一視していると思われます。
だからファンの心情や熱情、感情のエネルギーが、とてつもなくキャラクターに注がれるのだと思います。
私は煉獄さんから感じるパワーは、ファンの集合意識のパワーだと思います。
私たち一人一人の意識は、実はつながっていて同じ想いや感情は、波長の法則により共振共鳴し、集合意識となり、その大きさで社会現象まで起こしているのではないかと、私は思うようになりました。
意識のエネルギーに関しては、また別の機会に述べます。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
煉獄さんについて、他にも詳しく知りたい方は以下のページをご覧ください。
☞「煉獄さんの母(瑠火)の言葉とは?「煉獄外伝」での名言も考察!」

☞「心を燃やせの意味とは?煉獄さんの名言・最期の言葉!: 鬼滅の刃」


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